ガイドブックには載っていない本郷を再発見できる裏ルート

2015年05月27日 01時06分
カテゴリ: エリアガイド
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読んで字のごとく文人の郷(さと)。文京区本郷には、かつて多くの文人が住んでいた。 文人郷は、「文人で街をつなげる、人がつながる」活動で、街づくりを行うムーブメント。ぶんきょう・いんぐれすは、文人郷と組んで文人ゆかりのポータル集積地である本郷でイングレス体験会を実施した。

題して、本郷菊坂の魚屋3代目・長谷川大さんが案内するお勧めルート!「実際に遊んでみる!」をテーマに、鮮魚店「魚よし」3代目の長谷川大さんに本郷を案内してもらった。おなじみの観光スポットばかりではあるが、観光ルートを逆行するコースは「本郷の箱入り息子」を自認する長谷川さんオリジナル。途中に飛び出す長谷川さんの地元トークが興味深く、観光ガイドには載っていない解説に参加者は大満足だった。


本郷菊坂の鮮魚店「魚よし」の3代目・長谷川大さんのお勧めルート


炭団坂(たどんざか)
本コースの出発地点。本郷の台地より菊坂方面へ下る急な坂道で、現在は53段の階段坂となっている。戦後GHQが統治していた頃にアメリカ軍のジープがこの坂を降りて坂の下で曲がりきれなくなったので角の世帯の壁をけずったという話を、おじいさんから聞かされたとのこと。この坂の英語ミッションは坂名をローマ字入力しなければならないので、読みを忘れずに!

坪内逍遥旧居・常磐会跡
坪内逍遥(1859〜1935)は、明治17年(1884)この地(旧 真砂町18番地)に住み,『小説神髄』(明治18年〜19年)を発表。文学は芸術であると主張した。逍遥が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに寄宿した。常磐会寄宿舎から菊坂をのぞむ句に「ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす」がある。

金田一京助・春彦 旧居跡
金田一京助の長男・春彦(国語学者)は、大正2年(1913)本郷で生まれた。大正9年(1920)からの5年間,近くの真砂小学校(現本郷小学校)に在籍。この頃唱歌の音階に関心を持ち、それが後の平家琵琶やアクセント研究のきっかけとなったといわれている。

一葉の菊坂旧居
一葉が18~21歳の2年11ヶ月、洗い張りや針仕事などの内職をして母と妹の3人で暮らしていた住居。細い石畳の道に入って左側が一葉が最初に住んでいた住居で、石畳の道に入るすぐ右側の建物が次に移り住んだ住居。中には井戸があり、一葉もこの井戸で水を汲んでいた。当時は井戸の横には家は建っておらず、相撲の土俵があったと記録されている。

菊坂
本郷通りにある小さな坂、見送り坂・見返り坂が落ち合う地点から菊坂下交差点まで続く、長くゆるやかな坂道。

旧伊勢屋質店
樋口一葉が菊坂下道に住んでいた頃から生活が苦しくなるたびに通った質屋。その後下谷区竜泉寺町、本郷区丸山福山町に移ってからも縁は切れなかった。伊勢屋は1982年に廃業したが、土蔵は一葉存命時のまま遺されている。

啄木ゆかりの赤心館跡
石川啄木(1886~1912)は、「文学の志」やみがたく、22歳の明治41年5月、北海道の放浪の旅を終えて3度目の上京。上京後、金田一京助を頼って、本郷「赤心館」に下宿し、執筆に励んだ。赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、「菊池君」「母」「天鵞絨」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。赤心館時代の句に「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」がある。

菊富士ホテル跡
宇野浩二・宇野千代・尾崎士郎・直木三十五・広津和郎・竹久夢二・谷崎潤一郎・宮本百合子・坂口安 吾・大杉栄・伊藤野枝……。菊富士ホテルに止宿した文人たちは、錚々たる顔ぶれだ。菊富士ホテルは、明治29年より下宿・菊富士楼を経営していた岐阜県大垣出身の羽根 田幸之助・菊江夫妻が、大正3年、菊富士楼隣地に開業。同年開催の東京博覧会に訪れる客をあてこんでの経営だったが、次第に文人たちの集まる 宿となり、さまざまなドラマが繰り広げられる舞台となった。建物は戦災を受け焼失、跡地には昭和52年、羽根田家により止宿者の名を刻む石碑が建立されている。

本妙寺(第四校)跡と私立女子美術学校菊坂校舎跡
本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一体にあった法華宗の大慈院。明暦3年(1657)の大家“振袖火事”の火元とされているが原因には諸説がある。この地に,明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校の菊坂校舎が建設されたが、昭和10年(1931)現杉並区和田へ移転した。また明治3年(1870)年6月、最初の公立小学校のうちの1校「第四校」が、この地(旧本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた。今日の湯島小学校の前身である。

鮮魚「魚よし」
「本郷の箱入り息子」を自認する長谷川大さんは、鮮魚店「魚よし」の3代目。店は本郷通りから菊坂のゆるやかな坂を下る途中、かつて多くの文人や芸術家が滞在した「菊富士ホテル」跡の近くにある。菊富士ホテルも得意先の一つだったという。フェイスブックを通じて、旬の魚や市場での仕入れの様子などの情報を発信している。ちなみに同店は、ポータルではない。

真砂遺跡
ゴールの「文京区男女平等センター」の建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。現在の建物を建築するにあたり、昭和59年に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができた。この遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名された。

イングレスを活用して本郷を日本の文人のハブに

体験会終了後は、文京区で活動するエージェントたちとの交流を兼ねた意見交換会が行われた。「本郷にとどまらず、全国の同じ文人にゆかりのある地域と協同でこのムーブメントを広めていきたい」というのが長谷川さんの願い。本郷に住んでいた文人たちは、出身地や活動地域、作品の舞台で全国にゆかりを持っている。その地域では観光資源として文人が紹介され、記念館やグッズが作られ、イべントが行われている。

「ゲームアプリが、多くの地域とのつながりを生むきっかけになるのでは?」。その地域だけでの文人の紹介や観光にとどまらず、全国をつなげていくツールとしてイングレスに興味を持った長谷川さん。文人ゆかりの地方都市との合同ミッションの作成に興味津々。街をつなぎ、物をつなぎ、人をつないでいき、お互いの街を賑やかにさせる。このイメージを実現させるためにイングレスは有用なツールとなり得る。

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